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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

ルパンの「大錯覚」 ~面白い小説を見つけるために #2

26 面白い小説を見つけるために

前回、モーリス・ルブランのルパンの話からはじめた。
thx.hateblo.jp

その直後、また本棚を漁っていたら『百年目』(新潮文庫)という本を発見(発見というか自分が忘れていただけなのだが)。サブタイトルには「ミレニアム記念特別文庫」とあるぞ。平成12年発行である。


人類史上初の20回目の世紀末を迎えるにあたり、詩歌、小説、評論はもとより、エッセイ、コラム、紀行文、伝記、放談、人生相談、言祝ぎ、贈る言葉、日記、マンガ、写真に至るまで、2000A.D.をめぐる多彩な文芸、いや芸文を集めた一冊だという。要するにバラエティブックですね。

百年目―ミレニアム記念特別文庫 (新潮文庫)

百年目―ミレニアム記念特別文庫 (新潮文庫)


目次を眺めていると、「奇岩城の大嘘」というタイトルを、これまた発見。三宅一郎という方が書かれている。
ルパン話の後に見つけたものだから、思わずページをめくってしまった。こういう偶然があるから本を読むことは楽しいのです。
先を急ぎたいのだが、ちょっと寄り道をする。


※以下、「奇岩城」についてのネタバレがあるので、未読の方は要注意願います。


「奇岩城」は意訳?

日本語タイトルで「奇巌城」あるいは「奇岩城」という名で訳されているモーリス・ルブランの作品は、原題は「L'AIGUILLE CREUSE」(レギュイユ・クルーズ)である(定冠詞がついているので、レギュイユとなる)。*1
「L'AIGUILLE CREUSE」の、とくに「aiguille」(エギュイユ)という言葉が、この作品の重要な鍵を握っているのだが、三宅一郎さんはその訳について「大嘘」あるいは「大錯覚」と言っている。


もともと「奇岩城」や「奇巌城」という邦訳は、ルパン訳で著名な保篠龍緒が1919年「奇巌城」として出版したのが始まりとされる。以降ずっとその訳語タイトルが邦訳として引き継がれ、定着してきた。
しかし、このタイトルは原題に忠実な訳語ではない。
「aiguille」(エギュイユ)とはどんな意味なのか。

では、辞書はこの語をどう説明しているかを前掲の『ル・ロベール』辞典を例として示すと、

Ⅰ 鋼鉄の小さな線条で、一端が尖り(サキ)、他端(アタマ)に一つの穴(眼またはメド)を設け、そこに縫うための糸を通す物。
Ⅱ 先端が尖った種々の金属条。
Ⅲ 先端が尖った種々の物体。

と大別しているが、Ⅰは、なんのことはない縫い針のことで、この項目を<針>と総称してもよく、この項目に縫い針以外の色々な針、刺し針、留め針、鍼針などをふくめている。Ⅱには、磁石針、時計針、注射針などを例として挙げ、Ⅲには、

イ、動植物(蜂の針、魚の名称、松葉など針葉樹の葉)
ロ、地理(先端が尖った山頂および尖鋒を持つ山など)
ハ、地質(尖った岩、尖礁など)
ニ、建造物(尖塔、鐘楼、オベリスクなど)

としていて、エギュイユの第一義は<針>で、フランス語者にとっては、エギュイユ(針)、エパングル(ぴん)、エピン(とげ)などは、とくに辞書をひもとくまでもない日常の用語である。ルブランの、この小説を最初に和訳した保篠氏は、エギュイユを<針>だと直観し、その後七十年間も<針>が尾をひき現在に及んでいる。

エッセイには「エギュイユ=針」を利用して翻訳されている例がいくつか示されていて、単に〈針〉とすると何となく不自然または違和感を与えそうな箇所には、そのままエギュイユなどカタカナをあてはめたり、カッコを付けて説明している訳書もあるという。ちなみに「creuse」(クルーズ)というのは、〈空洞な〉〈虚ろな〉を意味する。

「奇岩城」は〈空洞針〉ではない

ところで、保篠氏が「奇巌城」と名づけた岩は実在する。フランス北部セーヌ=マリティーム県のエトルタにある(ネットで画像検索できる)。ただしその内部が空洞で、そこに通じる道があるというのはルブランの作り話。
エギュイユをそのまま〈針〉として訳すと、邦訳タイトルは「空洞の針」となるが、作中のエトルタの大岩の描写はそんな柔な印象を与えない。

彼の真正面の沖合いに、ほとんど断崖の高さと同じ高さで、八十メートル以上もある巨大な岩がそびえていた。水面すれすれのところに見える花崗岩の大きな台座の上に、この巨大なオベリスクが垂直につっ立っていたのだ。それは、てっぺんへいくほど細くなり、まるで海の怪物の巨大なきばのようだ。このおそろしげな一枚岩は、断崖と同じように白いが、それはよごれて灰色がかった白色だった。

これは岩波少年文庫版での描写である。

奇岩城 (岩波少年文庫)

奇岩城 (岩波少年文庫)


「奇岩城」に登場するエギーユという言葉は実に92%が定冠詞付きだという。
定冠詞が付いているということは固有名詞の響きがあるので、フランス人なら「レギュイユ」という言葉を聞いたときに〈針〉ではなく、まず〈尖った山〉を想像するのではないか。
山じゃなくても、岩や塔かもしれない。もし「エギュイユ」が〈針〉を意味するなら、不定冠詞が付くのではないかと、三宅氏は述べている。


しかし、「エギュイユ=針」という訳者の理解が、冠詞がついた「レギュイユ」となっても付きまとって、「うつろの針」「針には穴があいていた」「空洞針」などという表現になり、苦し紛れで混乱してしまっているという。
小説のタイトル「レギュイユ・クルーズ」を日本語で表現するなら、「空洞の針」ではなく「空洞の尖峰岩」と理解されるべきである。

だから、この小説を原文で読むフランス人は、まず小説の題名を見て、
――空洞の先鋒、奇妙な山だな。
くらいに思い、暗号解読の段階では、無冠詞のエギュイユに<針>を感じ、物語が進展して、ル・シャトォ・ド・レギュイユの場面になると、<尖った鐘楼や尖塔の屋根がある屋敷>を想像し、「針の城」というようなイマーヂュは湧かないと思う。そして、いよいよ話が大詰ちかくなると、尖鋒というのが実は尖った大岩であることが判明する。
(中略)
もともと、エギュイユという言葉は、エギュ(鋭い、先がとがった)という形容詞から派生したもので、語原のラテン語の詳細はさて措き、「針」という語から尖鋒や尖岩という義が派生したのではない。とにかく、山でも塔でも岩でも、尖っているという意義が支配しているのだから、「針のように尖った岩」とするのもよかろうが、最初に針と断定したので、それに引きずられて<針岩>とか<針が空洞>だとするのは滑稽である。


最後に、このエッセイはこう訴える。

けっきょく、邦訳『奇岩城』の原名は『空洞の尖峰』、平たく言うと『洞ヶ岳』くらいのところで、その実体は「がらん洞のとんがり岩」である。しかし、この題名そのものが暗号であり、作品のモチーフでもあるので、これを正解とするかどうかが物語にたいする興味と理解をあたえる。作者は、針や尖峰や尖塔をからませて読者の好奇心を高めているのだが、冒頭にも云々したように訳中文の個々の誤りを非難しているのではなく、この作品の根幹を左右する総体的なな判断を間違えていることの重大性を訴えているつもりである。

どう訳すか

ではタイトルの「L'AIGUILLE CREUSE」をどう訳すか。ぼくは訳者ではないので妙案などはでてこない。


ルブランの意図としては、三宅氏も指摘するように「エギュイユ」という言葉の持つ多くの意味をもって、読者をうまくミスリードさせたいわけなので、邦訳は慎重にならざるをえないだろう。
タイトルはそのままでもいいが(「奇岩城」はもう変えられないかも。思い切って別のタイトルもあり得るなあ)、あちこちにでてくる「エギュイユ」については、キーワードの重要性を失ってはいけないと感じるので、たとえば各場面ごとに注釈や解説をつけるというような形で説明するというのはどうだろうか。


ふう。
だいぶ寄り道をしてしまった感じ。
しかも寄り道で疲れた感じ。


でもこういうことを追究するされる方がいるというのは、面白いし、なんといっても後の訳のために有難い。
「誤訳」でこちらが混乱させられるのは、小説の面白味をずいぶんと削いでしまうことになりますから。
と勝手に読み手側の理窟を言っておいて、寄り道から戻ります。(つづく)

*1:発音についてはここでは割愛する。