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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

ひろがる読書術 #2

10 武蔵小杉読書会 25 再起動するための知的デフラグ術

「読書会の技術」を、いったん「ひろがる読書術」と広義に捉えてみた。
「つながる」というよりも、「ひろがる」。ぼくという主体が中心のネーミングである。

前回まではこちら。
thx.hateblo.jp

なぜ読書会をはじめたか

この読書会をはじめたきっかけは、ぼくが当時理事をしていたNPOのイベントに参加していた、大学生ふたりの一言からはじまった。

「若い人たちにも、地域コミュニティ活動に参加してもらいたいんです」

というのだ。
殊勝なことを言うなあとぼくは感心した。


「じゃあ、なにか企画してみてよ」
と言ったら、しばらくして呑み会企画を提案してきてくれた。


地元の駅前で、地域交流会のような呑み会をやるからきてください。
というような中身である。とくに目立った仕掛けもなし。


ぼく自身は「この企画は難しい(集客できない)だろうな」と直感的に思ったけれど、それはあえて口にせず、彼らに任せて進行してもらった。
呑み会の内容、チラシのデザイン、コピィなど、いろいろと彼らが動いた。
ぼくはNPOの事務局に事情を話しておく、くらいしかやらなかった。有難いことに事務局も理解して見守ってくれた。
なんて大らかな時代だったんだろうと、そのNPOの現状を横目で見ていると、しみじみと思う。いまならそんなイベント、新参者には絶対に企画も運営もさせてくれないだろう。往事渺々である。


しかし案の定、ひとりの参加者も集めることはできなかった。


「どうする、やめる?」とぼくは彼らに聞いた。
すると、「呑み会企画はやめます」という。


「ぼくらのやりたいのは、呑み会のような単発的なイベントじゃなくて、もっとサークル的にじわじわと人が集まってきて、持続的なものをほんとうはやりたいんです」
と、大学生のHくんは言った。


「たとえばどんなことをしてみたい?」と試しに訊いたら、
「穂咲さんなら、なにをやりますか?」と逆に訊いてきた。


なんだ、no ideaかよと思ったが、
「おれはやったことないけど、読書会っていうのも、ひとつアイデアとしてはあるんじゃないかな?」
と答えたのが、そもそものスタートではある。
椅子と机くらいがあればいい。場所は、NPOの会議室を使えばいいし、空いていなければ喫茶店でもいい。元手がそんなにかからないで済むのだ。

本を読んでこなくてもいい

その数年前から、ぼくは、作家でありコラムニストの日垣隆さんが主催する読書会に何回か参加させてもらっていた。読書会に関するぼくの原体験は、そのくらいしかない。

日垣さんの会は、少ないときで10人に満たず、多いときには100人の規模にもなった。取りあげるテキスト(課題図書)は、あるときは古典(テキストが7冊という会もあった)、あるときは最前線のビジネス書、ときには著者自身が参加した回もあった。テキストのセレクションは日垣さん本人が面白そうと感じた内容をどんどん取り上げていった。
もともとがジャーナリストだから、時事的なことがらには嗅覚が鋭い。


日垣さんはリアルの会も開くが、毎月一冊、メーリングリスト上で古典を読む会というのも主宰している。
たとえばこれを書いている2016年8月にはリオデジャネイロ五輪があったが、この月の課題テキストは石川達三『蒼氓』(新潮文庫)だった。第1回芥川賞受賞作だが、書かれたテーマは「ブラジル移民」である。
こういう意外性のあるセレクションというのは、テクニックとして難易度が高い。選者のセンス次第ということに、悔しいけれどなってしまう。だから、ぼくみたいな半可通はせっせと本を読むしかない。


「本を読んでこなくてもいい」というスタイルも、日垣さんの読書会のノウハウだった(でも、けっきょく参加者のみなさん読んできて臨んでいる!)。ぼくはそれを真似しただけである。


ひとつの本をテーマにしてみんなで語ることの、
そして話題がどんどんずれつつもそれを許容する、その会大らかな雰囲気と、
さらにファシリテーションする日垣さんの話術の巧みさに、
ぼくはすっかり楽しんでいた。


いつか自分でも「読書会」というのを開催してみたいとは思っていた。
たまたま、それを実現できそうな機会がめぐってきたのである。
最初はアイデアを出して、それで終わったつもりだったが、そしてそうなることは予想できたが、ぼくがけっきょく読書会のファシリテーションを担当することになった。

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