読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

【小さな旅】司馬遼太郎について思う二、三のこと ~安城市読書会

20 同時代ノート 30 自在眼鏡の本棚 34 エッセイ・コラム・散文

愛知県安城市に来ています。友人主催の読書会に参加するためです。
ちょうど出立の時間がリオデジャネイロ五輪の開会式と重なっていたので、リアルタイムには開会式自体は観られず。
そういえば、iPhoneNHKの五輪観戦アプリをダウンロードしたことを思い出した。けれど、新幹線のなかでは通信状況もよろしくないだろうということで、読書会の予習をしていきました(半分くらいは寝てましたけど)。

ご当地は、恒例の七夕まつり真っ最中(2日目)です。関東もそうでしたが、こちらもとにかく暑いのなんの。少し早めに安城駅に到着したんですが、会場までの道すがら汗でびっしょりになりました。

そんな外気はさておいて、友人主催の読書会(今年で8回目だそうです)に参加してきました。参加者は11人。みんな読み巧者ばかりです。
thx.hateblo.jp

テキストは、司馬遼太郎『「明治」という国家』(NHKブックス)。
「どうも読みにくかった」という参加者のひと言を口火に議論がはじまりました。ぼくはかなり久しぶりなので、どういう展開になっていくのかひとまず模様眺めさせてもらっていました。

11人は、「読みにくい」「すんなり頭に入ってこなかった」という方と、「すらすらと読めた」という方とに分かれました。
「頭に入らず」派としては、その理由を、話があちこちに飛んでしまい、なにがテーマだったのか判然としなくなってきて混乱してしまうこと、あるいは作者自身が物語に登場してきてしまう、ということで話していました。

テキストが頭に入ってくる/来ない、というのは、案外その人次第というところもあって、きちんと論理的に書かれていようがいまいが、受け手によるところはあります。
そう言ってしまうと身も蓋もないんですが、まずはそういう前提はある。
それを踏まえた上で言いますが、やっぱり司馬さんのテキスト(小説であれエッセイであれ)は話があちこちに行っている。余談が多い。作者がひょいと顔を出す。それは間違いない。ときに鬱陶しいとも感じられる。小説のスタイルも、はたしてエッセイなのか小説なのか解らなくなるのも確かです。

でも、それは良きにつけ悪しきにつけ、司馬さん独得のテクニックだろうと、ぼくは思っています。
司馬さんは、こう書いています。

私は、小説の実作者にとって、誰それの小説ということが存在するだけで、単に小説とよばれる形式の普遍的概念は存在しない、とおもっている。私は私なりに、人間と人生についての自分の関心や感動を、自分はこれが小説だと自分で妄信している形式でもって書いているだけのことである。

そもそも司馬さんはあまり物事の本質をズバリと言い切らない、イシューに直接的に言及しない、というスタイルを持つ書き手だと感じています。
何か物事、世間の事柄、事件等について言及するときに、例えば歴史上の近しいエピソードを引っ張ってきて、しゃべったり読者に提示した。それは彼が本質を避けているということを意味しません。
そうすることのほうが、より本質に近づいている、正鵠を射ているということも、確かにあると思います。本質を追究するけれど直接的には言及せず、外縁をあらわすことで見えてくる姿がある、ということでしょうか。

そこから先は、受け手の好みだとぼくは思います。そういう司馬スタイルが好きか嫌いかについては。

というのが、読書会でのぼくの身も蓋もない結論です(苦笑)。(つづく)

写真は、夜の七夕まつり。安城駅前ゲートの飾り付けです。
f:id:zocalo:20160807072131j:plain