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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

3.11 春を恨んだりしない

20 同時代ノート 30 自在眼鏡の本棚 34 エッセイ・コラム・散文

池澤夏樹『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』(中公文庫)のタイトルを一瞥して、なんと厳しい言葉かと思った記憶がある。
震災後のわずか半年後に、思索エッセイとはいえこの表題を世に出すのにはそれ相応の勇気と準備が必要だったろう。

その印象はいまもあまり変わらない。数々報道されているように、復興が進捗していないと感じている人が70%もいる現在であればなおさら。
復興に関していえば、著者はこう書いていた。

震災と津波はただただ無差別の受難でしかない。その負担をいかに広く薄く公平に分配するか、それを実行するのが生き残った者の責務である。
亡くなった人たちを中心に据えて考えれば、我々がたまたま生き残った者でしかないことは明らかだ。

この本のタイトルは、震災以来ずっと著者の頭のなかに響いている、ある詩の一行なのだという。
ヴィスワヴァ・シンボルスカ
ポーランドの詩人で随筆家、翻訳家でもある。1996年ノーベル文学賞受賞したが、2012年2月1日に亡くなった。
タイトルは、その詩人の「眺めと別れ」という詩の最初の部分である。

またやって来たからといって 
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと(後略)

この作品は、彼女が夫を亡くしたあとに書かれたものだという。

震災後、何人かの作家が震災をテーマにして作品を書いてきた。
池澤もそのひとりで、一昨年『双頭の船』(新潮社)、去年は『アトミック・ボックス』(毎日新聞社)とつづけて上梓しているが、その流れの発端にはこの本がある。

彼には『楽しい終末』(中公文庫)という20年以上まえの評論集があって、そのなかで核や原発についても章をいくつか割いて論じているが、それはあくまでも評論という形で閉じてしまっていた。

そこでは、彼自身うまく結論づけることはできなかった。
その果たされない思いが、小説という形に具体的になったのは、東日本大震災が直接的なきっかけだろうが、小説をものとするまえに、まず彼は事象を整理した。
多くの人たちとの、出会いと対話とたくさんの涙とともに、起きたことを自分の言葉で腑分けしてファイルに収めていった。これが本書である。

その作業でも整理のつかないものたちに、彼は物語という<ヴィークル>を与えて小説として昇華した。ぼくは勝手にそう思っている。

そして何より--これが肝腎なのだが--、これらの小説は面白いのである。
不謹慎な言い方だが、この場合、面白いことは死者への手向けなのではないか。

あの時に感じたことが本物である。風化した後の今の印象でものを考えてはならない。
(中略)
しかし、背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。
(中略)
その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにはならないか。
死は祓えない。祓おうとすべきではない。
更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。
(中略)
我々はヒロシマナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。
これらすべてを忘れないこと。
今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。

春を恨んだりしない。
この言葉を口にする勇気を、ぼくらは持ち合わせているだろうか。