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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

練習する場所はどこにでも用意されている

22 ナリワイ・ノート

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上の写真、なんだか解りますか?
道路や鉄道駅などの公共の場所にある、あの黄色いぼつぼつのライン。
正式には、「視覚障害者誘導用ブロック」(点字ブロック)というそうです。正式名称はなかなか知らないですよね。

それはさておき。
ある日のこと。娘と外出したとき、急に彼女がそのブロックを挟んで、右に左に交互に片足でぴょんぴょんと飛び跳ねはじめたのです。
まるで、三角コーナーをドリブルして走り抜けていくように。娘はしばらくまえまで、地元サッカークラブのコーチにサッカーを習っていたので、なんとなくそう見えたのかもしれません。

ただぼんやりとその姿を見ていたぼくは、ああ、ブロックで遊んでるんだなと思い、
「おーい、転ぶなよ」
とひと言声を掛けたのです。
言葉通り、転ぶことはなく、彼女は器用に片足でブロックを跨いでいきました。

そのとき、ぼくはふと気づいたのです。

ああ、どこにでも練習するところはあるんだ。
練習場所を見つけるのは、自分自身なんだ。

ちょっと飛躍した思考かもしれません。
とても凡庸な結論かもしれない。
そんなこと、誰もが経験しているかもしれません。この思考につながるような前景(ストーリィ)があるわけでもない。
別に、彼女はサッカーチームに所属しているわけでも、サッカーが好きなわけでも、ましてや練習しているわけでもなく、単に、そのブロックを連続してうまく飛び越えたかっただけなんでしょう。

しかし、凡庸であろうが幼稚であろうが、普遍的だろうが極私的であろうが、彼女の意図がどこにあろうが、その瞬間それが降りてきたことが、ぼくにとっては重要なのです。
降りてきた瞬間の手応えが、ぼくにはうれしかった。

サッカーの練習がサッカー場だけで完結しないように、物事の鍛錬の場はあまねく目の前にある。
そこでトレーニングできるかどうか気づくのは、自分自身の問題である。

ぼくのために、ぼくのナリワイのために「閃くこと」をどう導くことができるかというのが、ぼくの課題のひとつでしたが、閃くためのヒントはいずこにもあるのですね。
それに気づかされた、正月のある一日。

そして。
この人の言葉も、楽しみにしています。
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