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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

【#215】「カミソリになるな、ナタになれ」

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いろんな方とおしゃべりをしていると、当意即妙というか、快投乱麻を断つというか、とにかくアタマの回転が速く目の前の事象をスラスラと解読解説し問題を指摘される方がいます。

その知性のひらめきと華やかさは、まるでバタフライナイフが手のひらの上で舞っているかのように、ぼくには映ります。

ともすれば、いまの時代、そういった「バタフライナイフ」的なスマートさに、つい目が惹きつけられがちですね。瞬間瞬間のアドリブ力、ネット上での脊髄反射的反応などは、CPUが高熱を帯びて稼働しているかのようで、ぼくらはその「切れ味」に目を見張る。

もちろん、そういう才能や能力を否定するつもりはありません。きらめきと華やかさから、多くの成果がでていることも確かです。
でも、ぼくがちょうど手にした本には、それにたいしてこう綴られていました(著者はバタフライナイフを「カミソリ」と言っていますけど、同じことです)。

「カミソリになるな、ナタになれ」。
今は亡き僕(引用者注:著者)の高校時代の担任の先生の言葉です。実に言い得て妙だと思います。

<中略>

しかし、カミソリはその切れ味、スピード感に比例して、「錆びやすい」のです。
その「可能性と限界」をよく見極めながらメンテナンスしないと、あっという間に錆びつき、壁にぶつかってしまうことになりかねません。

それたいして、著者は鉈(ナタ)についてこう言います。少し長いですが引きます。

一方、ナタは、ふりかぶるのにも時間がかかります。標的を定め、全身の筋肉を使って体勢を整え、ゆっくりと振り下ろす。
そこには「大きな構え」が必要です。
肉体と精神の呼吸が一致していなければなりません。
スローな動きは集中力を要求される難しい所作ですが、この一連の作業が見事に決まれば、実にあっけないほど気持ちよく、木が一刀両断されるのです。それは、単に切れ味、効果というものを超えて、「切る」という行為そのものの定義を問い直し、深く考えさせられる重みを持っていると思います。(改行は引用者による)

手にした本は、丸山俊一『すべての仕事は「肯定」から始まる』(大和書房)。
前述の一文は、冒頭にありました。
この文章に、ぼくはぐぐっと惹きつけられました。

そもそも「ナタ」のような知性とは、いったいどんなものなのか。
なぜ、「ナタ」を身につけることが必要なのか。

それは教養に裏打ちされ、本質を射貫く「力」であるはずだと予想しますが、ほんとうにそうなのか。

読むのが愉しみになってきました。

すべての仕事は「肯定」から始まる

すべての仕事は「肯定」から始まる