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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

【書架 #201】『クオ・ワディス』のミュージカルを観てきました!

30 自在眼鏡の本棚 33 小説・創作 36 古典

ミュージカル「何処へ行く」を観てました。www.t1010.jp

原作となったのは、シェンキェーヴィチクオ・ワディス』(岩波文庫)です。上中下巻3巻ありますね(^^;
本はひとまず買いましたが、けっきょく見終わった後までページをめくりませんでした。ま、積ん読王なので(^^;

ですので、前提知識というか仕込み情報はほぼゼロで、2h30のミュージカルに臨んだわけです。

あらすじはこんな感じです(HPから引用させてもらいます)。
ローマ帝国、ネロの時代。ネロがでてくるだけで、「あいつがなにかしでかすだろ」という期待感満載になります。
なんてたって、カリギュラと並んで「悪名高き皇帝」であらせられるので。

西暦60年代。暴君ネロの治世下でのローマ帝国は、ヨーロッパの大部分を支配していた。
イエス・キリストの十字架刑から30年。使徒ペテロたちの伝道によって、キリスト教徒はひそかに信者の数を増やしていた。
ローマ皇帝ネロは虚栄心の強い残虐な暴君で、自らの芸術的才能を自負することに熱中していた。

ローマの軍団将校マルクス・ウィニキウスは、クリスチャンである美しい娘リギアを愛してしまう。
ある日ネロの愚かな芸術的野心で、ペトロニウスの反対もむなしく、ローマの町は大火に包まれる。火事で家を失った民衆の怒りによる暴動を恐れたネロは、ローマの火事をキリスト教徒のせいにしてしまう。

無実の信者たちは全員捕らえられ、リギアもまた投獄を免れなかった。ネロは信者の処刑を開始。リギアの身にも危険が迫っていた。ウィニキウスはリギアを救うため、命をかけて皇帝に反旗を翻す。
そうした悲劇が巻き起こる中、ローマを去った使徒ペテロは、途上で主イエス・キリストに出会う。
ひざまずき、「クオ・ヴァディス・ドミネ?(主よ、いずこへ行きたもう?)」と問いかけたペテロに、イエスは衝撃的な言葉で答えるのだった。「お前がローマに戻らなければ、私がローマに行き、もう一度十字架にかかろう。

前半、このマルクス・ウィニキウスがクリスチャン*1の娘に惚れる。娘もマルクスに惚れているが、彼女はマルクスが自分を「モノ」「戦利品」としか認識していないことが気に入らない。マルクス自身はそれのどこが彼女の気持ちを傷つけているのか理解できない。
性根は純情な青年だが、相手の気持ちを慮れないんですね。お互いにOSが違うからなんでしょうね。

好きだ愛せよ、イヤよそんな気持ちのままじゃというのが続いているうちに、リギアはネロ最愛の子どもに呪いをかけたとして、追われる身になる。
彼女を探し、彼女をかばうクリスチャンのコミュニティに触れて、キリスト教の説く「愛」の大切さに目覚め、リギア自身を改めて深く愛するようになった・・・というのがぼくの好意的解釈でしたが、うまく理解できなかったのは、マルクスという人間ははたしてキリスト教を理解し受け入れたのかということですね。
だって、キリスト教を理解したぞとリギアに宣言したあとで、「でもおれを愛するのか、イエスを愛するのか、どっちかにしろ」という台詞もあるし。
ペテロに「信仰と愛は別とお考えください」と指摘されてるし。

マルクスという男は、単にキリスト教に触れて、リギアの思考フレームを理解したということではないのか。

このあたりが未整理のような気がしてモヤモヤが残ったのも確かですが、台詞ひとつひとつもほぼ曲に乗っている、全編歌の嵐にさらされて、ひさしぶりに観劇の楽しさを思い出しました。

*1:じつは、ここ微妙で、キリスト教徒とはいわない。クリスチャンとキリスト教徒は違うのかしら。