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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

【書架 #198】坪内祐三『人声天語2』で感じた、昭和が完全に時代になっていく時間

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坪内祐三『人声天語2』(文春新書)。

月刊「文藝春秋」に掲載されている同名の時評コラムをまとめたもので、この本は2009年から2015年6月までのものがおさまっている。ちなみに最初の1冊目は2003年6月から。ということは、12年続いているわけだ。

さて、本のタイトルだが、「天声人語」ではなく、「人声天語」。
天声人語」はご存知朝日新聞一面に掲載されている名物コラムだ。
あ、「名」コラムではなく、「名物」コラムね(このあたりは日垣隆「ひきこもる『天声人語』の断末魔」「『天声人語』パワーダウンの歩み」を読んでいただければよく解るだろう)。

人声天語とは何か。
天声人語のパロディだろうか。
そう見えるかもしれない。
けれど、実は、違う。
(中略)
「天声」にはパブリックなイメージがある。ある種の客観をよそおっている。
それに対して「人声」はプライベートである。あくまで個人的な声(しかもそれが、もしかしたら「天声」につながっていけるかもしれない)。
だから、「人声天語」とは、要するに、反射神経による思考(発言)のことである。
そういう反射神経による発言(反射的発言)は、時に「天声人語」的な言葉と対立するだろう。(坪内祐三『人声天語』より)

このコラムをひと言でまとめてしまうなら、時評コラムということになるが、もっと坪内さんの個人的なクロニクルだとぼくは感じている。
もっとも個人的だからといって、それがそれだけで閉じてしまっていないからこそ(閉じていたら日記と同じ)同時代のコラムになっているわけで、副題に「オンリー・イエスタディ」とあるのがそれをあらわしている。

それにしても、という言い方は不遜だけれど、この本を通読して感じたのは、平成20年代というのは、ほぼ昭和の人や風景が消えていく時間なのだということだ。1冊目の『人声天語』にはまだ昭和があちこちに残っていた気がするが、2冊目からはそれらがまさに「粛々と」消えていく有り様が見てとれる。

一世代30年といわれるけれど、平成もすでに30年に刻々と近づいている。
東京オリンピックは平成32年の予定。
その祭典が終わったとき、ぼくたちは昭和とはまったく違った風景を見ることになるんだろう。
児玉隆也ではないが、だからこそ『この三十年の日本人』を、ぼくも書いてみたいのだが。

人声天語 (文春新書)

人声天語 (文春新書)