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積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

【明日への本棚 #168】山口瞳『卑怯者の弁』を、終戦の日、手にとる

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山口瞳『男性自身 卑怯者の弁』(新潮文庫)。

そういう言葉があるのなら、ぼくは「ヒトミスト」だ。折に触れて、本棚から取り出す。
この夜もそんな一夜だった。thx.hateblo.jp

さて、この『卑怯者の弁』の紹介をひいてみる。

昭和20年8月15日、私は日本陸軍の兵隊だった。私には戦争のない世の中がどういうものになるのか、そのときは分からなかった。今、著名な文化人までが日本の再軍備を訴えている。いけない、それはいけない。まず何よりも、母が泣く--

ゴリゴリの反戦主義者の山口に軽軽には与しないけれど、戦中派の心情は尊重しなければと思う。むしろ、そのリゴリズムに惚れ惚れしているくらい。

こちらから全文が読める。
日本ペンクラブ:電子文藝館

ここでは、清水幾太郎の「節操と無節操」という論文(『諸君』昭和五十五年十月号)が戦中派としの山口を憤らせる。噴き上がる戦中派の憤りを、簡単に無視できるか。

清水先生は、こうも書いておられる。

「しかし、私は思うのだが、『古い戦後』から『新しい戦後』への苦しい転換のエネルギーは、戦後に生れた諸君自身から出て来なければならない。『古い戦後』の甘い空気を吸って育った諸君、『日本国憲法』の無邪気な受益者である諸君の中に求めるほかはない。私のような明治生れの単純な戦前派や、大正及び昭和初期に生れ、複雑に屈折した感情を持つ戦中派は、もう転換の主役ではない。主役であってはならない。主役は戦後派で、戦前派や戦中派は、必要に応じて、彼らの役に立てばよいのである」
(中略)
この清水先生の文章は、なかなかに律動感があって美しいし、あんたが主役だと言われた戦後派の若い人たちは、快感をおぼえるかもしれない。しかし、戦中派コムプレックスの権化であるところの私は、この文章に、ある種の臭(にお)いを感ずるのである。これは聞いたことのある言葉だぞと思う。戦中派の諸君! そう思わないか。私には、どうしても、次の言葉がダブって聞こえてくるのである。
「ナンジラ青少年学徒ノ双肩ニアリ」

そしてこう喝破する。

清水幾太郎先生は「すべての国家が、もはや戦争することの出来ない国家、国家でない国家になるのではないか」(『日本よ国家たれ』)と心配されておられるが、戦争することの出来る国家だけが国家であるならば、もう国家であることはゴメンだ。

そりゃその通りです、山口さん。

男性自身 卑怯者の弁 (新潮文庫)

男性自身 卑怯者の弁 (新潮文庫)