読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

積ん読王の 自由画帖

〈読み、考え、旅をし、見て、話して、書く〉同時代ノート。

【きま本 #99】坪内祐三『昭和の子供だ君たちも』でわかった、「仁義なき戦い 広島死闘篇」の隠された意味

f:id:zocalo:20150506221954j:plain

坪内祐三『昭和の子供だ君たちも』(新潮社)。

先日「仁義なき戦い」第一部を観てしまってからこっち、ぼくのアタマはやや昭和がかっている。
今日は息子と第二部「広島死闘篇」を観てしまった。

仁義なき戦い 広島死闘篇 [DVD]

仁義なき戦い 広島死闘篇 [DVD]

この本を取りあげたのは「昭和」というキーワードではなく、正確にはここに第二章「『仁義なき戦い 広島死闘篇』における山中正治と大友勝利の対照性について」という一文が収められているからだ。

この本は、世代論である。しかも、昭和に限っての。
世代というキーワードで昭和の精神史を紐解いていくという建付けで、第二章では主人公といっていい山中正治というヤクザと、大友勝利というヤクザを対比しつつ、じつは監督の深作欣二と脚本を担当した笠原和夫を対比しているのである。

深作と笠原は3歳違いで笠原が年上である(「広島死闘篇」公開時には、深作42歳、笠原45歳)。その3歳差が重要なのだと、坪内は指摘する。

その年齢差が、笠原をして、

深作さんは山中というのがよくわからんと。なんで山中が「予科練の唄」を口笛で吹きながら人を殺しているのかという根本のところがよくわからないと。
でも、僕は自分で体験してるからよくわかるわけですよ。山上(山中のモデルとなった山上光治のこと。坪内註)というのは実際、喧嘩して刑務所に入れられてたから戦争へ行けなかったけど、本当はお国のために死にたかったんだと。予科練でも入って、戦闘機に乗ってパーッと死にたかったんでしょう。(『映画脚本家 笠原和夫 昭和の劇』より)

といわしめた。

「仁義なき」というのは、戦後になって世相が変わり、仁俠道がなくなってしまった「戦後ヤクザ」の意味だといわれているが、坪内はもうひとつの意味を読みとる。
つまり、仁義を信じようとして犠牲になる男たちのこと。仁義があるはずだと信じていたのに、そんなものはないのだと悟る男たちのことであると。

山中というヤクザはまさにそれを体現した男であり、笠原の思いが具現化したキャラクタだった。
対する大友は、まさに「アプレゲール(戦後)」を体現した男だ。彼には「仁義」というモラルはクソ食らえであり、敗戦は彼にとっての解放だった(それにしても、千葉真一の怪演ぶりはとっても面白かった)。

深作欣二には山中という人間がよくわからない。
その深作欣二笠原和夫はわからない。

そういう意味では、とざっくりといってしまうが、バブルを経験した世代とそうでない世代というのも、お互いにわかり合えないところ、というか決定的になにか違うところがあるように感じるのは、バブルの末席にいたぼくだけだろうか。

世代論は無意味だという議論もあるけれど、けっこう有効なんじゃないかという気がしますけれどね。

昭和の子供だ君たちも

昭和の子供だ君たちも